平成、さようなら

「平成が終わります」

 

そのアナウンスを初めて聞いたのは、いつだっただろうか。

 

1年前だったか、2年前だったか。

でも、朝ニュースをつけたら唐突にそんなことを知りもしないアナウンサーから一方的に告げられて、「へえ〜、そうなんだ」と思った。

 

平成2年生まれの私は、平成という時代イコールほぼ自分の人生だ。

平成という時代を振り返るテレビ番組はたくさんあるけれど、私が平成を振り返ろうとすると、いろんな人の顔や景色やきもちや音楽や匂いや風の感じとか温度とか、バアっと湧いてきて、そういういろんなもので埋め尽くされる。

 

ある時代に自分が自分の時間とエネルギーを目一杯注いできたもの、一輪車でもキャッチボールでも読書でも勉強でも友人でも恋人でも、それが今現在も同じ状態で自分の手元に残っているものがどれだけあるだろう。

 

いや、これは手元になくなったことを悲しんでいるのではないのだ。なにも悲しいことが原因で手元を離れていくものばかりではない。たぶん、その時々の自分の人生でちょうどよい「タイミング」みたいなものがあるのだ。

 

きっと大人になってから一輪車に熱狂しているのでは、ちょっと違かっただろうし、そういうことなのだ。ちょうどいいタイミング。

 

私が思うのは、私がある時期に自分の時間を目一杯使って、自分のエネルギーを真剣に注いだものは、形は変われど自分の感性や思考に深く根を張っているということだ。

 

もう会わないかもしれない人もいる。でも、ふとした瞬間に再会する人もいるだろう。確実なことは、誰かとした会話や読んだ本や小さい頃食べたもの、そういうものの総体で自分ができているということだ。

 

だから多分、「明確な自分」なんてものはいないし、自分は常にゆるやかに変わっていて、昨日の自分も、今の自分も、違う人間なのだろう。

 

去年、自分でも驚くような大怪我をして、会社も辞めて、2年前には想像もできなかった生活をしてる。

幸い怪我も治ったし、転職した会社もいい会社だ。そして、上京した18才の頃は自分には縁もゆかりもなかった鎌倉で、今は暮らしている。

 

地元を飛び出したくて、上京して、10年間、東京で楽しく暮らして、なのにまた、結局地元みたいに海の近くに住んでいる。

 

人間関係も去年を境に大きく変わった気がする。

大切なひとは大切なままだけど、自分の人生に出てくる登場人物がだいぶ変わった。

 

でも、これも好きとかきらいとかではなくて、環境やタイミングが大きい。

 

でも、住む・働くの環境っていうのは、結局のところその人の価値観を色濃く反映しているような気がして、私は今年から住む・働く環境が変わった訳だから、そういうことなんだろうと思う。

 

きっと、その時に不自然な力を割かずに寄り添えるものが適切なタイミングのものなのだろう。

 

平成の自分は、自分が欲しいものを、自分から全力で取りに行くようなことが多かったけど、次の時代は、密かに自分の考えや知識や力を蓄えつつも、待つこともしていこうと思う。

 

さて、次の10年で一体何をしよう。

 

きっと30代って、人生でもとりわけワクワクする時代になるはずだ。

 

明日は30代の計画をたてよう。

 

人生は、自由だ。