私が見た9月30日と3月11日

 

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いつか記録に残したいと思っていました。

しかし、果たして自分が書いていいのか、とも思いました。

なぜなら、私が書こうとしていることは、いろいろな方の人生に関わることだからです。

けれども、だいぶニュースで見かけることも少なくなった話もあります。

私は、妹が晴れて社会人になるこの機に、書き残したいと思いました。

そして、できることなら、妹に読んで欲しいとも思いました。

もし、嫌な気持ちにさせてしまった方がいらしたら、本当にすみません。

でも、今日書かなくても、おばあちゃんになった頃、きっと書き残したいと思うと思うのです。

いつの日か、書くのなら。

だから、今日、書いてみることにしました。

 

少し、長くなります。

 

 

 

母は私が上京するとき、何度もなんども、「地下鉄には気をつけてね」と念を押しました。

私は「海外に行くわけでもないんだから、大丈夫だよ」、そう笑って答えました。

 

そのとき私は第一志望の大学に合格し、浮かれていました。

そして、新しく親元を離れて始まる大学生活、一人暮らしに胸を膨らませていました。

私の実家は茨城にあり、東京には特急で1時間半ほどでいけます。

中学や高校の同級生も、大勢、東京の大学に進学しました。

なので、私はただただ目の前に広がる無限の自由に、胸を踊らせるばかりで、母の言葉の意味を真剣に考えたことはありませんでした。

 

私が母の心配の意味に気が付いたのは、大学2年になる直前の春休み、ニュースを見ていたときでした。あの日から◯年、といった特番だったと思います。

そのニュースを見て、ふと、随分昔に母がつぶやいていた一言を思い出したのです。

母がそれをつぶやいた時は、ある年の9月30日だったかと思います。

 

「ほーちゃんは、生まれる前も、生まれた後もとってものんびり屋さんだったの。出産予定日を過ぎても、ぜーんぜん出てきてくれなくて、パパと、どれだけお腹の中が居心地いいんだろねって笑ってたのよ。あまりにも出てきてくれないから、帝王切開で生まれたの。でもね、みーちゃんはすっごい元気な子で、もうずーーーーっとお腹の中で暴れててね、先生と絶対男の子ですよねって言ってたの。で、生まれる直前も超大変だった。みーちゃんは結局自然に生まれてくれたのだけど、出産前日、いや、前々日くらいかな、大変過ぎてテレビも見てる余裕がなかった。で、無事、生まれてくれて、ふとみーちゃんを抱っこしながらテレビをつけたのね。そうしたら、地下鉄サリン事件のニュースが真っ先に目に飛び込んできたの。お母さん、とてもびっくりしてね、ああ、大変な時代にこの子たちを生んでしまった、私がちゃんとこの子たちを守って生きていかなくちゃ、そう漠然と思ったの」

 

ほーちゃんは、私で、みーちゃん、とは、私の妹です。

その話をしてくれたのは、私もまだまだ幼い頃でした。

しかし、日頃底抜けに明るい母の、真剣な様子に、幼い私は心をとらわれて、「地下鉄サリン事件」という言葉がずっと心に残っていました。

 

その言葉の意味が10数年の時を経て、20歳の春休みに、ようやく理解されました。

母は、その時の気持ちが深く残っていたからこそ、あっけらかんと、夢だけを持って上京する私にあんなにしつこく「地下鉄には気をつけてね」と言ったのでしょう。

 

私は、この記事を昔の記憶を頼りに、でも、できる限り正確に書きたいと、記憶を補完するために、調べ物をしました。

そして、恥ずかしながら、今日になってようやくその場所が、霞ヶ関駅だと知りました。

東京に来てから、幾度、この駅を通ったでしょうか。

私はなんでも知ったような気になりながら、何も知りませんでした。

 

その母がこの話をしてくれた日、それは、東海村のJCOの臨界事故があった日でした。

私は、後にも先にも、母がこんなにも取り乱していたのを見たことがありません。

 

あの日、妹は幼稚園の遠足でJCOのすぐ近くの公園に行っていました。9月の終わり、あの日は穏やかな陽気でした。園児たちは無邪気に公園で駆け回っていました。

 

その最中です。あの事故が起きたのは。

私の知識では、あの事故のことを正確に説明することはできません。

ただ一つ、言えるのは、核反応とは、莫大なエネルギーが関わっているということです。

巨大な星が燃えているのは核融合のおかげです。

原子力核分裂のおかげです。

そういう違いはありますが、原子力発電の原動力は、星の生命と関わるほどの、莫大なエネルギーなのです。

私は、科学には疎いですが、少々、そのエネルギーは、人間が扱うには大きな、大きすぎるエネルギーだと思うのです。

 

あの日、妹が遠足から帰ってくるとすぐに、両親は身内が働く原子力の関連施設に妹を運び込みました。

そして、全身、線量検査を行い、やっと一息つきました。

 

福島には、石炭化石館というところがあります。博物館のあるいわきは、石炭を主産業としていました。

原子力については、原子力ムラという言葉がよく聞かれるので、今更私が何かいうこともないと思います。

ただ、福島も、茨城も、一つの次の産業として、原子力が根付いたのは確かです。

 

あの日から10年くらいが経ちました。

あの日から10数年たった3月11日、私は神戸にいました。

あの日に撮った神戸タワーの夜景の映る、綺麗な海の水面の写真は、今も私の部屋に飾られています。

 

大学生の時の私の趣味は、旅行でした。

今も旅行は趣味ですが、あの頃は本当にお金がありませんでした。

交通手段はもっぱら高速バスか青春18切符

あの時、私は広島の方だったでしょうか、四国の方だったでしょうか、西の方を旅をして、最後の目的地、京都に行く手前、神戸に寄りました。

私のあの頃の旅行は、西に行く時、京都で終わることが多かった。

それは、京都から多くの格安高速バスツアーが出ていたからです。

そういうわけで、私は次の京都の一泊を控え、神戸の夜を満喫していました。

 

当時の私は、旅行の時、荷物が多かった。

時間はあるが、金はない。

だから、できる限り、旅先で過ごそうと思うのです。

遠くに行けば行くほど、片道の旅費がかかりますから。

 

そうすると、必然的に必要な荷物の量が多くなります。

私は、その問題を解決するために、常に、洗濯洗剤と、携帯物干しを持ち歩いていました。

その頃はゲストハウスや格安のビジネスホテルに泊まることがほとんどでした。

そして、そういった宿には、必ずといっていいほどコインランドリーがありました。

なので、私は必ず、宿に泊まると二日にいっぺんは洗濯をし、100円で一回分の乾燥機をかけ、乾かない分は、部屋に干して、二週間ほどの旅行を乗り切っていました。

 

そんな旅行のある日、神戸につきました。

運よく、予約していたホテルは、チェックイン時間前だというのに部屋が空いていて、私たちはカバンを部屋に放り投げ、大の字になってテレビをつけて一息ついたのです。

 

右手を枕に何の気なしにみるテレビ。

 

そこに映し出されていたのは、私の故郷でした。

私が幼い頃から幾度となく入った海に、大きな渦潮が渦巻いていました。

アナウンサーは興奮気味に、ヘリコプターから実況しています。

あまりに現実離れした映像に、私は過去の何かの映像だろうと思い、「これ、いつの映像なんだろうね」などと言いながら、神戸の街に繰り出しました。

 

夜も遅くなってきた頃です。

20時は過ぎていたかと思います。

急に携帯に着信が何件も表示されました。

 

母からでした。

 

私の母は、あまり子供を束縛するタイプではありません。

時折、様子を気遣い電話をくれますが、一回でないと、今、忙しいのかな? と思ってくれるようで、私からの折り返しを待ってくれます。

その母から着信が10数件あるのです。

私はびっくりして電話をかけ直しました。

 

一回めのコールで母は出ました。

「アンタ! どこにいるの!」

この日からこの日まで旅行に行くとはいっていたけれど、なんでこんなに怒っているんだろう。

長期間、旅行に行くことは今までなんどもあったのに。

 

「神戸だよ、明日から京都」

 

「ああ……。それなら、良かった。ほんとうに、よかった」

 

「え? なんかあったの?」

 

「あんた、ニュース見てないの?」

 

「うん、神戸観光してたから」

 

「まだ範囲はわからないけど、東日本ですっごい大きな地震があったの。うちの街にも津波が来た。今、家の電気もつかないし、ガスも使えない。水道も出ない。この電話はうちの自家発電機から電気をとってかけてるの。今も余震がある。でも、家族は全員、無事だから、あんたは気をつけて帰って来なさい。できることなら、こっちに来ないで、東京にいなさい」

 

私は、びっくりしました。

過去の映像だろうと昼間、見流していた映像が今日のことだったこと。

私が観光をしていた最中、家族は大変な状況にあったこと。

妹は当時高校生でした。

妹の学校の付近にはオフィスが無数にありました。

そして、妹の学校は、昔々、湖だった場所が埋め立てられてできた土地の上にありました。

なので、揺れも一層強かったのだと思います。

妹の学校付近の道路は、割れたガラスの破片でいっぱいでした。

 

うちは兼業農家で、祖父はサラリーマンを辞めてから家の前の湖で漁もしていました。

そんな関係で、家には井戸水をくみ上げるモーターや、自家発電機など、じーちゃんの趣味の延長のような、しかし、生活も支えてくれている機械がたくさんありました。

我が家はみんなサラリーマンをやりながらも、自然が豊かな場所にあったので、自然に沿うような暮らしをしていました。

正月のお餅は庭で薪で火を起こし、もち米を炊いて作っていました。

その薪は、うちの裏山の木を切ったものでした。

なので、あの日は寒い日でしたが、井戸水や自家発電で最低限のライフラインは保つことができ、それを近所の人にも提供することができました。

 

私は震災から少し時間の経ったゴールデンウィークに実家に帰りました。

約二ヶ月ほど経った頃です。

両親と妹はつくばまで迎えに来てくれました。

あの頃、様々な流通網が麻痺し、外食店も不定期営業でした。

迎えに来てくれた家族と、唯一営業していたチェーンの居酒屋に入りました。

家族と居酒屋に入ったのは、これが初めての体験でした。

 

実家に帰った私は唖然としました。

私が幼い頃から見慣れていた実家の塀は崩れ落ちていました。

入母屋造りのばあちゃん自慢の家は、ぐしがほとんど壊れていました。

 

日本の伝統的な家は、木が豊富に使われていますから、軽く作られています。

その重しになるように、瓦が乗せられています。

そして、瓦の頂点には「ぐし」と言われる場所があります。

そこは三角屋根の頂点をつないだ場所です。

一番高いところと思っていただければいいでしょう。

震災のように、強い横揺れに晒された時、例えばぐしが一度左に振られ、そのあと痛烈な右揺れがきます。そういう時、そのスパンがあまりに短いと、左揺れと右揺れが衝突し、ぐしが砕けてしまうのだそうです。

 

ひいじいちゃんが作った物置の鬼瓦は、庭の片隅に落ちていました。

 

我が家には、犬がいます。

みんなからとっても可愛がられています。

そして、彼女もまた、家族が大好きです。

 

我が家は、あまり無人になることはありません。

日中、両親が仕事に行っている時は、祖父母が家にいることが多いですし、私たち姉妹が実家にいた頃は、祖父母と私たちが早い時間から家にいました。

 

あの日は、春が近い日でした。

祖父母は田植えの下準備に、田んぼを耕しに行っていました。

我が家には犬が一人でした。

そんな時に、あの大揺れがきたのです。

 

犬は、ジャスミンと言います。

ジャスミンは、庭に繋がれています。

そして、ひどい揺れ。

頭上には瓦が降ってきます。

さぞや、怖かったでしょう。

我が家の犬小屋は頑丈な作りです。

ジャスミンは、犬小屋に入り、ことなきを得ました。

しかし、私は、あの時の彼女の恐怖を想像すると、その場に一緒にいて、小屋の中で抱きしめてあげたかったとよく思います。

今日に至るまで、茨城では余震があります。

その度に、彼女は非常に不安定になります。

犬は優しく、素直な生き物です。

あの時の気持ちを忘れられないのだと思います。

 

祖父母はあの時のことを「地面が割れるかと思った」と言います。

命からがら軽トラに戻って、家を目指した、と。

 

我が家の家の近くの道の多くは、ひび割れました。

大きな陥没もいくつもできました。

中学生の頃から親しんだアウトレットは津波に飲まれました。

同級生の家は間一髪、無事でした。

茨城は地元のテレビ局がありません。

実家に帰る前、情報源はラジオが頼りでした。

電力供給も、電波も不安定で、携帯で連絡を取ることもままらない日もありました。

そんな中でラジオから実家の住所が流れ、「〇〇町の〇〇道路は一時封鎖されています」などのニュースが流れると、非常に不安になりました。

東京の私のマンションの近くのコンビニやスーパーは、軒並み、品切れでした。

 

家族は、震災から二ヶ月後、実家に帰った私を労ってくれました。

こんなに大変なことがあったのに、自分を労ってくれた家族に、私は今でも言葉で言い表せないような気持ちになります。

 

こうして、自分や家族が無事で入られたことは非常にありがたいことです。

しかし、自分だけが、あの日、遠く関係のない場所で、のほほんと過ごしていたことが、ずっと引っかかっていました。

私はその年の初夏、東北にボランティアに行くことにしました。

 

きっかけは友人が誘ってくれたことでした。

その時の気持ちを、論理的に言うことはできませんが、「行かなくちゃ」そう思いました。

陸前高田に行きました。

高校の同級生の実家があり、泊まらせてもらったこともあって、思い出のある土地でした。

私の大学のボランティア班は数人のグループに分けられました。

私は、山あいの田畑の瓦礫を撤去する班になりました。

 

考えてもみてください。

山あいの田畑です。

海抜よりずっと高いところにあります。

それなのに、

それなのに、

その場所にあるはずもないものがたくさんありました。

トイレの便器

システムキッチン一式

長靴の片割れ

家の屋根

卒業アルバム

 

卒業アルバムは、水を含んで膨らんでいました。

アルバムの最後には、友人からの寄せ書きがありました。

おそらく、持ち主と思われる方の名前もありました。

 

私は、それをボランティアセンターに持ち帰り、地域の方に預けました。

 

それからさらに3年ほど経ちます。

私は大学院生になりました。

 

私は環境・エネルギー研究科、というところに入りました。

私はそれまでまちづくりの勉強をしていましたが、 JCOや東北のことがこの時になって強く思い出されました。

エネルギーとまちづくりをつなげて考えたいと思った気持ちも少しありました。

 

私は自分が師事していた教授を非常に慕っていました。

その一方で、環境経済学、というものを担当している関西出身の非常に面白く温かい先生に出会いました。

彼をきっかけに、私は再び、東北の地と関わることになりました。

 

私たちがメインで訪れるのは福島でした。

私は茨城出身ですから、福島は幼い頃から行っています。

そういう土地に線量計を持ちながら、行ったのです。

 

塩害にあった土地でも育つ作物を一緒に考えたりしました。

福島県内を一緒に回ったりしました。

 

東北の大部分では復興が進んでいます。

ですが、つい、2年ちょっと前、訪ねた福島は、数年前の3月のままの場所がたくさんありました。

人の営みの気配をそのままに、動物が気ままに歩いている場所もたくさんありました。

その当時、撮った写真はたくさんありますが、私は、皆さんの故郷をここに無防備にあげる気持ちには、どうしてもなりません。

 

 

陸前高田にボランティアに行った時、私は少し心のバランスを崩して、引率してくれた講師の先生と衝突しました。

それと似た気持ちは、今でもあります。

 

 

 

私の実家は、兼業農家だと、少し前に書きました。

私の名前は穂奈美と言いますが、この稲穂の穂は、田植えの時期に生まれたからなのです。

植えた稲がたわわに実りますように。

そうして、穂の漢字をつけたと両親は言います。

私は、その名前の通りかどうかは知りませんが、未だにゴールデンウィークは実家に田植えに帰ります。

父が田植え機で、ゆったり田んぼを往復します。

私はブックオフで買った、安い文庫本を片手に草むらで寝転んでいます。

5月の明るい風が吹き抜けます。

私は本を鼻のあたりに載せて、空を見ます。

そして、幸せだなあと思います。

ああ、父が帰ってきた。

苗箱を渡さなくちゃ。

本を草むらに伏せて、父に苗箱を渡します。

振り返ると、本にバッタがのっています。

 

そして、私は思うのです。

 

暮らすとは、こういうことなのでしょう。

 

 

人は、自然の中で、自然に寄り添うように暮らす生き物なのです。

 

自然を掌握する、ということは難しいことなのかもしれません。

 

 

まだ、明確な答えも、行動もできませんが、そういうことを思っています。