プレデターの思考設計
寝る間際、あとすこし起きてようかな、と思いつつ、ほとんど寝る支度はできているのに、適当にテレビのリモコンを回しながら日曜の夜を惜しんでいた。
その時である。
人間が、得体のしれない生き物にめちゃくちゃにぶちのめされていた。
正確には覚えてないけれど、あれはきっとプレデターシリーズだったと思う。
主人公は宇宙の怪物みたいなプレデター達と死に物狂いで戦っている。
けれども、どうも、一番肝要なプレデターがちょっと間抜けで、シーンとしてはシリアスなのにちょっと笑いながらみてしまった。
たぶん、同じように誰かが死に物狂いで戦っている状態が、人相手の映画だったらわたしの反応は違うものだったかも知れない。
私は、決して笑っては見れなかったはずだ。
じゃあ、なんで笑ってしまったのか。
それはたぶん、プレデターが滑稽だったせいもある。
そしてそれ以上に、プレデターが「理解できない存在」だったからだ。
映画の中で主人公はプレデターが何を言ってるとか、何を考えてるとか、理解はできない。
理解できないことに加えて、滑稽な見た目、絶対あり得ないよね、というシチュエーション、こういうことが相まって、私はお気楽にあの映画を観れたのだろう。
理解しなければ、寄り添うものがない。
私たちには共有すべきものがないのだ。
では、私たちは、等しくそこにあるはずの命に対して「理解」をしたとき、感情移入をするのだろうか?
理解とは言語が通じるかどうかだろうか?
いや、それは違うだろう。
例えば、犬だ。
もしも、我が家の犬が一瞬の自由に心踊らせ、脱兎のごとく逃げ出したとする。
けれども、代わりの犬を探してこようね、とは絶対にならない。
言葉が通じなくても、犬と私たち家族には絶対通じ合っているものがあるからだ。
母が出勤するとき、彼女は寂しそうに尻尾を垂れて見送っている。
私が東京に戻る時、また離れ離れになることを私もまた、とても悲しんでいる。
きっと、通じ合う、ということが大切なのだ。
きもちときもちが、通じ合う。
じゃあ、このきもちってどこからくるのだろう?
心?
アタマ?
それとも、全身の細胞?
人間の60%は水でできている、などと言うではないか。
分子レベルに分解したら、遺伝子という設計図は多少違うにせよ、構成内容は「人間」という種においてほぼほぼ一緒なのだ。
H2OとかNとか、そんなものの集合体がある奇跡的な組み合わせになったとき、そこに、その人だけの「思考」が生まれる。
私たちはほとんど一緒なのに。
仮に類人猿の時代から脈々と続く、人体の完璧な設計図通りに体の成分が組成されたとして、その組み合わせにより何らかの電気信号が引き起こされる。それが思考だとしよう。
では、明るい人、静かな人、その人の性質は何に起因するのだろうか。
もしかすると、思考や感性は幼少期の環境によるのかもしれない。
私には妹がいる。
高校生まで一緒の家で育った。
けれど、私と妹は似ているところもある反面、違うところの方が多い。
母が2枚のハンカチを買ってきたとして、その意見がぶつかることは決してなかった。
母が「どちらがいい?」と聞くともなく、
「ピンク!」
「青!」
と声を揃えて、異なる方向を指差すのだ。
まるきり反対といえば反対だが、仲の悪い姉妹ではない。
大人になってからもたまに2人で食事をするし、ふらりと買い物したりする。
わたしは彼女とどこで違ったのか。
わたしたちは、どこで考えているのだろう?
わたしは、なにを以ってわたしとわたしを定義づけているのだろう。
わたしたちは、どこで、うれしい、かなしい、と感じているのだろう?
その答えを出すヒントになるかも知れない、静かなよい小説でした。
カズオイシグロ
わたしを離さないで