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文章を書くコツは、ニュートンの万有引力の発見と同じである

 

「ひかれあっていると思っていたけど、どうやら違うみたい。私の方があなたにひかれてたのね」 

 

あれは2月の終わりだった。 

春の気配がそこかしこに溢れて、ひときわ強い風が私たちのコートの襟を叩くたびに、一歩一歩春が近づいて来ることを感じるような日だった。 

外はしとしととまばらな雨が降り、3月が目の前に迫っている今日は、着ている服と気温がちぐはぐなような暖かさだ。 

でも、この湿度も、この風も嫌いじゃない。 

長い冬が終わり、今にも爆発しようとしているエネルギーを街のそこかしこに感じる。 

 

私は外の雨の気配を感じながら、教室の教壇の上に佇む身長は180cmもあろうかという、いかにも若い時にはスポーツをしていたとわかる肩幅の広い、端正な横顔の男を見つめていた。 

 

通いなれたこの中学校も、来月には卒業だ。 

 

この学校で、私はたくさんのことを学んだ。

私の学びは、幼かったあの頃からつながっていたのだ。

 

 

 

小さい頃、宇宙飛行士になりたかった。 

両親は幼い私に、よく図鑑を買ってくれた。 

恐竜図鑑、昆虫図鑑、魚図鑑、植物図鑑、宇宙の図鑑。 

 

私はよく外で遊ぶ子供だったから、外でいろんなものに遭遇した。 

バッタ、トンボ、カブトムシ、ピーマン、トマト、ジャガイモなどなど。 

こういうものは大体、畑仕事をしている祖母にくっついて歩いている時に、「これなーに?」、「こっちは?」と尋ねて覚えた。また、庭で機械いじりをしている祖父の横でジッと祖父の手元を見てる時に「カナヅチとって」、「はーい」、「あっ、スパナの17取って」、「これ?」、「いや、メガネみたいになってない方」、「こっち?」、「うん」などと言いながら様々な道具の名前を覚えたりもした。 

でも、時々、名前を知らないものにも出会った。その名前はばーちゃんやじーちゃんも知らなかった。 

それはただの石ころであったりした。石によっては勢いよくコンクリートに叩きつけるとパリンと半分に割れる黒くてツヤツヤしたものもあったし、コンクリートに強く押しつけるように引っ張ると白く絵が描けるものもあった。白い線が引ける石ころでけんけんぱの丸をかいた。丸、丸、丸、丸、丸をたくさん書きながら、なんで丸を描ける石と描けない石があるんだろうと思った。 

 

そんな時はそれを家に持ち帰って、図鑑を眺めた。図鑑には写真と簡単な特徴が書いてある。 

そうかあ、パリンと割れる石には黒曜石というのがあるんだ。白い線が引ける奴は石灰岩かな? 違うかな……。図鑑には大人も知らないような世界について、写真付きでとてもわかりやすく書いてあった。 

 

小学校に入る頃には、小学校1年生で教わることのほとんどを自然とじーちゃん、ばーちゃんに教えてもらっていたように思う。 

わからないことがあって、それをばーちゃんに聞く。見たことがないものに出会って、それを図鑑で調べる。それは、ただジッと座って先生の話を聞くよりもずっと、いま、その時の私の興味に直結していて、とても素晴らしい学びの時間だった。 

 

正月には家族みんなで百人一首をした。

百人一首で負けたらお年玉をあげないよ、なんてじーちゃんが冗談をいうものだから幼い私は真に受けてムキになって勝とうとした。

歌を詠むのはばーちゃんかお母さんの役目だ。二人ははなから「どうせ勝てないわよ~」とじーちゃんと私のやたら白熱した争いを尻目におせちをつまんだりなどして、いつも適当に参加している。

 

母が読み上げる。

 

「じゃあ次ね、いにしえの~」

 

「はいっ!」

 

私がとる。

 

いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に 匂ひぬるかな

 

私が好きな歌だった。

昔じーちゃんに「この伊勢大輔って誰?」と尋ねたことがある。

じーちゃんは遊ぶことにかけて、とても物知りだった。

 

これはね、昔、平安時代平安京というのがあって、そこは都というとても賑やかな街でした。そこには藤原道長というえらいおじさんがいて、時々こんな風にみんなで歌を詠みあって遊んだりしていました。その中でもとびきり歌の上手いお姉さんがいてその人は紫式部と言いました。紫式部は歌がとても上手いから、ある歌を詠む会の時に、桜を受け取って、その桜について何か歌ってくださいと頼まれていました。だけど、紫式部は私の他にも上手な人がいますよ、と言って自分よりも若い伊勢大輔にその役を譲ってあげました。その時の伊勢大輔という人がこの歌を詠んだ人だよ。

 

「ふーん。じゃあこれ、なんて意味?」

 

平安京よりもさらに昔、平城京っていう都があってね。そこにはとても八重桜が有名なところがありました。その桜をもらったから、「昔、奈良の都で咲いていた桜が、今は京都の宮中で綺麗に咲いていますよ」と歌ったんだよ。今の京都の賑やかさとか、その時にいた天皇を褒めようとしたんだね。

 

「へえ~。そうなんだ。都って一個しか作っちゃダメなの?」

 

うん。だいたい、一個だね。

 

「そっかあ、じゃあ奈良にあった都の方は少し寂しくなっちゃうね」

 

そうだね、少し寂しくなっちゃったかもしれないね。

 

じーちゃんの話を聞いたら少しだけ切ないような気持ちになった。

その時はなんでそういう気持ちになったのか上手く言えなかったけど、たぶん、とっても賑やかだった奈良の都はなくなっちゃって、今は京都に新しい都があって、でも、奈良の桜の綺麗なところはそのあともずっと春が来るたびに桜が綺麗だったろうし、そんな風景を想像して、じーちゃんの言っていたとても賑やかな京都の都っていう風景と比べて少し切なくなったのだろう。

 

こういう遊びから、言葉には響きがあること、リズムがあること、日本の四季がとても刹那的で、だからじーんと心に響くこともあるのだという季節の捉え方を学んだ。その時は上手く言葉にならなかったけど、あの時に感じたきもちが今の感性の元になっているような気がする。

 

 

私は毎日いろんな遊びをしながら、恐竜時代に行ってみたり、花の名前を覚えたり、漫画を読みながら、ドラえもんと一緒にエジプトに行ったりもした。

そんな時、出会ったのが宇宙の本だった。

 

ある時、お風呂に入って、歯を磨いて、いそいそと布団に潜り込もうとしていると、母から「ほーちゃん、今日は、お月様綺麗だよ」と言われた。

私は「みたい!」と言って母とベランダに出た。

私の実家は家の目の前が湖である。私は海も大好きだけれども、湖だけが持つ吸い込まれそうにしんとした気配も好きだ。夜の湖はとても静かだ。だけど、圧倒的な気配がある。静かだけど、存在感がないのではない。生き物のざわざわとしたエネルギーがピンと張りつめているような静けさだ。

その日の月は満月だった。月は、湖面に白い光の筋を映して、静かに浮かんでいた。

 

「まんまるだねえ」

 

「そうだねえ」

 

「月って大きいのかな?」

 

「うーん、お母さんにはよくわからないけど、月ってずうーっと遠くにあるんだって。ずっと遠くにあるのに、うさぎさんが見えるくらい大きく見えるんだから、大きいだろうねえ」

 

「ふーん。ずっと遠くって、どのくらい?」

 

「たぶん地球を何個か並べたくらい」

 

「地球って、外から見たことないから、大きさ、よくわかんないね」

 

「そうだねえ、わかんないこと、たくさんだねえ」

 

そんな話をしながら、どのくらいおっきいのかは分かんないけど、やっぱり今日の月はまんまるだったね、と言いながら私たちは布団に入った。

 

1週間くらい経った日、父が宇宙の図鑑と地球の図鑑を買ってきた。

 

「お母さんに月のこと聞いたら、やっぱりよく分かんなかったんだって?」

 

「うん、分かんなかった」

 

「そっか、じゃあ全部はこれを見ても分からないかもしれないけど、ちょっとは分かるかもしれないから、読んでごらん」

 

「ありがとうっ!!!」

 

私は嬉々として受け取って、小学生には少し重い図鑑を大事に抱えて早速自分の部屋に向かった。

 

1ページ目をめくる。

 

真っ黒い宇宙の中に真っ青な地球がしんと静かに浮かんでいた。

私が見ている大好きな海は、私が知っているよりもずっと深くて透き通るような青だった。

 

ページをめくると、地球の半分は暗くなっている。

これが、夜。

 

私は夜を見たことがなかった。

私は夕方、日が沈み始めたなあと思っていると、気がつけばいつも夜の中にいた。

私は夜の中で、夕食を食べたり、眠ったり、そんなことはたくさんしてきたけれども、夜を見たことはなかった。

 

すごい。

 

宇宙って、すごい。

 

今まで今目の前にあるものを図鑑で調べることはよくしてきたことだ。

知らないことを知った時、私は「へえー! そうなんだ」とその度に、新しいものを知れたということにワクワクした。

 

だけど、図鑑を読んで、こんなにも美しい写真は見たことがなかった。

宇宙なんて、地球なんて、大きすぎて、手触りがあるような学びではない。

けれども、圧倒的に綺麗で、底が見えなくて、私は今まで手に取ったどんな図鑑よりも衝撃を受けた。

 

小学校1年生くらいだ。

「美しい」なんて単語は使っていなかったと思う。

あの時、私が感じた衝撃。

打ちのめされたような気持ち。

吸い込まれるような感じ。

 

あれこそが、「美しい」という言葉の意味なのだろう、と20年たって気がついた。

どこまでも広がる真っ黒な宇宙は、そこかしこに漂う星のあかりを頼りにするにはあまりにも心細く、あまりにも広かった。

どこまでも深い黒に、私は空恐ろしい気持ちになった。

だけれども、その中できらめく地球の青さに目を奪われずにはいられなかった。

 

本当に美しいものには、少しの恐ろしさが入っている。

底知れぬ恐ろしさの中に、何か圧倒的な生命の気配を感じた時に、私たちは「美しい」と打ちのめされ、言葉を失うのだろう。

 

その図鑑は、専門的なとても難しいというものではなく、子供にも分かるような平易な言葉で写真について説明が書かれているような図鑑であった。

 

土星の輪っか。

あれは輪っかではなく、たくさんの石なのだという。

 

星も生きているらしい。

宇宙にはガス雲というもやもやした場所があって、そこで熱のエネルギーが生まれて、原始星という星の赤ちゃんが生まれる。そこでは水素なんかがエネルギーとして燃やされて、星は光っている。ガスみたいなものが星になって重さが重くなると、宇宙には重力がないから周りの軽い石ころみたいなやつもどんどん重い星に引き寄せられてくっついてしまうのだそうだ。月にあるウサギみたいに見えるあのボコボコも、月にたくさん石がぶつかってできた跡なのだ。

そして、星には「自分で光っている星」と、光っている星の光を受けて「光っているように見える星」がある。太陽なんかは自分で光っている星で、月は光っているように見える星だ。

私はぜんぜん知らなかったけれど、その「自分で光る星」はいつかしんでしまうらしい。

自分の中で燃やすエネルギーがなくなって、すっごい大きい星は超新星爆発というものでしんでしまうのだそうだ。

けれども、その爆発はまた、次の星の赤ちゃんを産むガス雲になる。

だから、本当に何もかも消えてなくなっちゃうという訳ではないのだそうだ。

図鑑の最後にはこうも書いてあった。

 

そして、その星のかけらは私たち人間も作っていいます。

もしかすると今、となりにいるひととあなたは、ずっと昔になくなってしまった同じ星のかけらでできているかも知れません。

 

 

そうなのか。

宇宙ってすごいな。

星ってすごいな。

今までたくさん知らないことを調べてきたけれど、知らないことがたくさんだ。

 

宇宙のことを知るにつれ、いろんなことがつながっていくようになった。

小学生から中学生へ、歳を経るにつれ、その気づきは増えた。

 

星が生まれる時に、水素がたくさんあった。

宇宙で一番多い原子はH出そうだ。

地球ではOもとても多い。

ああ、なるほどH2Oか。だから地球にはこんなにも海がたくさんあるんだ。

 

遠くにあるまるで関係のないようなことがつながっていく感覚は楽しい。

 

ある日、理科の授業で先生がニュートンについて雑談をしていた。

 

ほんとにニュートンが言った話かっていうことは置いといて、「りんごが木から落ちるのをみて、ニュートン万有引力を発見した」という話があるよね。

あれが、本当だとしてニュートンがすごいのはさ、りんごが地面に落ちるのを見たら、普通の人は「地面もしくは地球にはものを引っ張る力があるのか?」って考えるよね。でも、ニュートンは違った。地球にものを引っ張る力があるのだとしたら、月も落っこちてきちゃうんじゃないか? なんで月は落ちてこないんだろうって考えたんだよ。その結果、彼が思いついたのが万有引力なんだね。あらゆるものには互いに引き合う力があるってね。

ちなみに、その引き合う力は質量が大きい方が強いんだ。

 

そっかあ。

なるほどねえ。

じゃあ、先生と私は引き合ってはいるけれど、先生の方が体重は重いから、宇宙に行ったら私が先生の方に引き寄せられれて行っちゃうのか!

私は先生の横顔を眺めながらそんなことをぼんやりと考える。

 

大発見、というものはニュートン万有引力のように、一見遠くにある関係のなさそうなことを一つ、普遍な理論で結びつけた時に起こる。

人は、そういう発見をした時、へええーーーー! と心底びっくりして不思議と爽快な気持ちになる。

知らないものを知る。物事の法則を見つける。それは人類共通の喜びの一つだ。

 

最近、文章を書くようになった。

文章を書く楽しさは、ニュートン万有引力を見つけた時に似ている。

何か書きたいものを見つけた時、それは私が、その「何か」になんらかの法則や気づきを見出した時だ。

 

なんであんなにもシェイクスピアが流行ったのだろう。源氏物語が流行ったのだろう。ああ、そうか、恋愛結婚というのは昔はなかなか難しかったんだな。今も昔も、みんな恋がしたかったんだ。

 

じーちゃんと私って考えてることに共通点とかなさそうって思ってたけど、明日もなんか楽しくしてやるぞ! ってわくわくする気持ちは一緒だな、とか。

 

昔の人の恋い焦がれる気持ちと今の人の恋。

 

じーちゃんと私。

 

一見遠いものを繋げる作業は、とても楽しい。

 

忘れ去られてしまった平城京と栄華を極める平安京

その華やかな対比の中には刹那的な美しさを見つけた。

 

私たちは宇宙の中で、知らないことがたくさんある中で、それでもどうにか自分の生きるその世界を自分の手の中に収めようと、毎日毎日いろんな形で切り取ろうとする、理解しようとする。

きっと文学も音楽も華道や書道、柔道といった、何か道のような気の遠くなるような作業は、人類が昔からなんとか、その素晴らしい世界を理解しようとしてきた壮大な試行なのだ。

 

理解しようとする力。

知りたい、と思う力。

 

これは私たち人間の底知れない素晴らしいエネルギーだ。

 

今日は5月みたいな陽気だ。

私は今、家の近所の川沿いを歩きながら、2月の終わりの、この5月のような陽気のやさしさを、風の感じを、どうにかして自分の中にとどめたいと思う。

 

生きている限り、私はいつだってそう思い続けるだろうし、そう思い続ける限り、普段暮らしている世界の中に、素敵な法則を探し続けるだろう。

 

 

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これからもブログの場で、愉快な記事も、ちょっぴり真面目な記事も、気ままに書いていこうと思います。

ゆるっと読んでくださればうれしいです。

 

今日も読んでいただき、ありがとうございました。