私が見た9月30日と3月11日

 

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いつか記録に残したいと思っていました。

しかし、果たして自分が書いていいのか、とも思いました。

なぜなら、私が書こうとしていることは、いろいろな方の人生に関わることだからです。

けれども、だいぶニュースで見かけることも少なくなった話もあります。

私は、妹が晴れて社会人になるこの機に、書き残したいと思いました。

そして、できることなら、妹に読んで欲しいとも思いました。

もし、嫌な気持ちにさせてしまった方がいらしたら、本当にすみません。

でも、今日書かなくても、おばあちゃんになった頃、きっと書き残したいと思うと思うのです。

いつの日か、書くのなら。

だから、今日、書いてみることにしました。

 

少し、長くなります。

 

 

 

母は私が上京するとき、何度もなんども、「地下鉄には気をつけてね」と念を押しました。

私は「海外に行くわけでもないんだから、大丈夫だよ」、そう笑って答えました。

 

そのとき私は第一志望の大学に合格し、浮かれていました。

そして、新しく親元を離れて始まる大学生活、一人暮らしに胸を膨らませていました。

私の実家は茨城にあり、東京には特急で1時間半ほどでいけます。

中学や高校の同級生も、大勢、東京の大学に進学しました。

なので、私はただただ目の前に広がる無限の自由に、胸を踊らせるばかりで、母の言葉の意味を真剣に考えたことはありませんでした。

 

私が母の心配の意味に気が付いたのは、大学2年になる直前の春休み、ニュースを見ていたときでした。あの日から◯年、といった特番だったと思います。

そのニュースを見て、ふと、随分昔に母がつぶやいていた一言を思い出したのです。

母がそれをつぶやいた時は、ある年の9月30日だったかと思います。

 

「ほーちゃんは、生まれる前も、生まれた後もとってものんびり屋さんだったの。出産予定日を過ぎても、ぜーんぜん出てきてくれなくて、パパと、どれだけお腹の中が居心地いいんだろねって笑ってたのよ。あまりにも出てきてくれないから、帝王切開で生まれたの。でもね、みーちゃんはすっごい元気な子で、もうずーーーーっとお腹の中で暴れててね、先生と絶対男の子ですよねって言ってたの。で、生まれる直前も超大変だった。みーちゃんは結局自然に生まれてくれたのだけど、出産前日、いや、前々日くらいかな、大変過ぎてテレビも見てる余裕がなかった。で、無事、生まれてくれて、ふとみーちゃんを抱っこしながらテレビをつけたのね。そうしたら、地下鉄サリン事件のニュースが真っ先に目に飛び込んできたの。お母さん、とてもびっくりしてね、ああ、大変な時代にこの子たちを生んでしまった、私がちゃんとこの子たちを守って生きていかなくちゃ、そう漠然と思ったの」

 

ほーちゃんは、私で、みーちゃん、とは、私の妹です。

その話をしてくれたのは、私もまだまだ幼い頃でした。

しかし、日頃底抜けに明るい母の、真剣な様子に、幼い私は心をとらわれて、「地下鉄サリン事件」という言葉がずっと心に残っていました。

 

その言葉の意味が10数年の時を経て、20歳の春休みに、ようやく理解されました。

母は、その時の気持ちが深く残っていたからこそ、あっけらかんと、夢だけを持って上京する私にあんなにしつこく「地下鉄には気をつけてね」と言ったのでしょう。

 

私は、この記事を昔の記憶を頼りに、でも、できる限り正確に書きたいと、記憶を補完するために、調べ物をしました。

そして、恥ずかしながら、今日になってようやくその場所が、霞ヶ関駅だと知りました。

東京に来てから、幾度、この駅を通ったでしょうか。

私はなんでも知ったような気になりながら、何も知りませんでした。

 

その母がこの話をしてくれた日、それは、東海村のJCOの臨界事故があった日でした。

私は、後にも先にも、母がこんなにも取り乱していたのを見たことがありません。

 

あの日、妹は幼稚園の遠足でJCOのすぐ近くの公園に行っていました。9月の終わり、あの日は穏やかな陽気でした。園児たちは無邪気に公園で駆け回っていました。

 

その最中です。あの事故が起きたのは。

私の知識では、あの事故のことを正確に説明することはできません。

ただ一つ、言えるのは、核反応とは、莫大なエネルギーが関わっているということです。

巨大な星が燃えているのは核融合のおかげです。

原子力核分裂のおかげです。

そういう違いはありますが、原子力発電の原動力は、星の生命と関わるほどの、莫大なエネルギーなのです。

私は、科学には疎いですが、少々、そのエネルギーは、人間が扱うには大きな、大きすぎるエネルギーだと思うのです。

 

あの日、妹が遠足から帰ってくるとすぐに、両親は身内が働く原子力の関連施設に妹を運び込みました。

そして、全身、線量検査を行い、やっと一息つきました。

 

福島には、石炭化石館というところがあります。博物館のあるいわきは、石炭を主産業としていました。

原子力については、原子力ムラという言葉がよく聞かれるので、今更私が何かいうこともないと思います。

ただ、福島も、茨城も、一つの次の産業として、原子力が根付いたのは確かです。

 

あの日から10年くらいが経ちました。

あの日から10数年たった3月11日、私は神戸にいました。

あの日に撮った神戸タワーの夜景の映る、綺麗な海の水面の写真は、今も私の部屋に飾られています。

 

大学生の時の私の趣味は、旅行でした。

今も旅行は趣味ですが、あの頃は本当にお金がありませんでした。

交通手段はもっぱら高速バスか青春18切符

あの時、私は広島の方だったでしょうか、四国の方だったでしょうか、西の方を旅をして、最後の目的地、京都に行く手前、神戸に寄りました。

私のあの頃の旅行は、西に行く時、京都で終わることが多かった。

それは、京都から多くの格安高速バスツアーが出ていたからです。

そういうわけで、私は次の京都の一泊を控え、神戸の夜を満喫していました。

 

当時の私は、旅行の時、荷物が多かった。

時間はあるが、金はない。

だから、できる限り、旅先で過ごそうと思うのです。

遠くに行けば行くほど、片道の旅費がかかりますから。

 

そうすると、必然的に必要な荷物の量が多くなります。

私は、その問題を解決するために、常に、洗濯洗剤と、携帯物干しを持ち歩いていました。

その頃はゲストハウスや格安のビジネスホテルに泊まることがほとんどでした。

そして、そういった宿には、必ずといっていいほどコインランドリーがありました。

なので、私は必ず、宿に泊まると二日にいっぺんは洗濯をし、100円で一回分の乾燥機をかけ、乾かない分は、部屋に干して、二週間ほどの旅行を乗り切っていました。

 

そんな旅行のある日、神戸につきました。

運よく、予約していたホテルは、チェックイン時間前だというのに部屋が空いていて、私たちはカバンを部屋に放り投げ、大の字になってテレビをつけて一息ついたのです。

 

右手を枕に何の気なしにみるテレビ。

 

そこに映し出されていたのは、私の故郷でした。

私が幼い頃から幾度となく入った海に、大きな渦潮が渦巻いていました。

アナウンサーは興奮気味に、ヘリコプターから実況しています。

あまりに現実離れした映像に、私は過去の何かの映像だろうと思い、「これ、いつの映像なんだろうね」などと言いながら、神戸の街に繰り出しました。

 

夜も遅くなってきた頃です。

20時は過ぎていたかと思います。

急に携帯に着信が何件も表示されました。

 

母からでした。

 

私の母は、あまり子供を束縛するタイプではありません。

時折、様子を気遣い電話をくれますが、一回でないと、今、忙しいのかな? と思ってくれるようで、私からの折り返しを待ってくれます。

その母から着信が10数件あるのです。

私はびっくりして電話をかけ直しました。

 

一回めのコールで母は出ました。

「アンタ! どこにいるの!」

この日からこの日まで旅行に行くとはいっていたけれど、なんでこんなに怒っているんだろう。

長期間、旅行に行くことは今までなんどもあったのに。

 

「神戸だよ、明日から京都」

 

「ああ……。それなら、良かった。ほんとうに、よかった」

 

「え? なんかあったの?」

 

「あんた、ニュース見てないの?」

 

「うん、神戸観光してたから」

 

「まだ範囲はわからないけど、東日本ですっごい大きな地震があったの。うちの街にも津波が来た。今、家の電気もつかないし、ガスも使えない。水道も出ない。この電話はうちの自家発電機から電気をとってかけてるの。今も余震がある。でも、家族は全員、無事だから、あんたは気をつけて帰って来なさい。できることなら、こっちに来ないで、東京にいなさい」

 

私は、びっくりしました。

過去の映像だろうと昼間、見流していた映像が今日のことだったこと。

私が観光をしていた最中、家族は大変な状況にあったこと。

妹は当時高校生でした。

妹の学校の付近にはオフィスが無数にありました。

そして、妹の学校は、昔々、湖だった場所が埋め立てられてできた土地の上にありました。

なので、揺れも一層強かったのだと思います。

妹の学校付近の道路は、割れたガラスの破片でいっぱいでした。

 

うちは兼業農家で、祖父はサラリーマンを辞めてから家の前の湖で漁もしていました。

そんな関係で、家には井戸水をくみ上げるモーターや、自家発電機など、じーちゃんの趣味の延長のような、しかし、生活も支えてくれている機械がたくさんありました。

我が家はみんなサラリーマンをやりながらも、自然が豊かな場所にあったので、自然に沿うような暮らしをしていました。

正月のお餅は庭で薪で火を起こし、もち米を炊いて作っていました。

その薪は、うちの裏山の木を切ったものでした。

なので、あの日は寒い日でしたが、井戸水や自家発電で最低限のライフラインは保つことができ、それを近所の人にも提供することができました。

 

私は震災から少し時間の経ったゴールデンウィークに実家に帰りました。

約二ヶ月ほど経った頃です。

両親と妹はつくばまで迎えに来てくれました。

あの頃、様々な流通網が麻痺し、外食店も不定期営業でした。

迎えに来てくれた家族と、唯一営業していたチェーンの居酒屋に入りました。

家族と居酒屋に入ったのは、これが初めての体験でした。

 

実家に帰った私は唖然としました。

私が幼い頃から見慣れていた実家の塀は崩れ落ちていました。

入母屋造りのばあちゃん自慢の家は、ぐしがほとんど壊れていました。

 

日本の伝統的な家は、木が豊富に使われていますから、軽く作られています。

その重しになるように、瓦が乗せられています。

そして、瓦の頂点には「ぐし」と言われる場所があります。

そこは三角屋根の頂点をつないだ場所です。

一番高いところと思っていただければいいでしょう。

震災のように、強い横揺れに晒された時、例えばぐしが一度左に振られ、そのあと痛烈な右揺れがきます。そういう時、そのスパンがあまりに短いと、左揺れと右揺れが衝突し、ぐしが砕けてしまうのだそうです。

 

ひいじいちゃんが作った物置の鬼瓦は、庭の片隅に落ちていました。

 

我が家には、犬がいます。

みんなからとっても可愛がられています。

そして、彼女もまた、家族が大好きです。

 

我が家は、あまり無人になることはありません。

日中、両親が仕事に行っている時は、祖父母が家にいることが多いですし、私たち姉妹が実家にいた頃は、祖父母と私たちが早い時間から家にいました。

 

あの日は、春が近い日でした。

祖父母は田植えの下準備に、田んぼを耕しに行っていました。

我が家には犬が一人でした。

そんな時に、あの大揺れがきたのです。

 

犬は、ジャスミンと言います。

ジャスミンは、庭に繋がれています。

そして、ひどい揺れ。

頭上には瓦が降ってきます。

さぞや、怖かったでしょう。

我が家の犬小屋は頑丈な作りです。

ジャスミンは、犬小屋に入り、ことなきを得ました。

しかし、私は、あの時の彼女の恐怖を想像すると、その場に一緒にいて、小屋の中で抱きしめてあげたかったとよく思います。

今日に至るまで、茨城では余震があります。

その度に、彼女は非常に不安定になります。

犬は優しく、素直な生き物です。

あの時の気持ちを忘れられないのだと思います。

 

祖父母はあの時のことを「地面が割れるかと思った」と言います。

命からがら軽トラに戻って、家を目指した、と。

 

我が家の家の近くの道の多くは、ひび割れました。

大きな陥没もいくつもできました。

中学生の頃から親しんだアウトレットは津波に飲まれました。

同級生の家は間一髪、無事でした。

茨城は地元のテレビ局がありません。

実家に帰る前、情報源はラジオが頼りでした。

電力供給も、電波も不安定で、携帯で連絡を取ることもままらない日もありました。

そんな中でラジオから実家の住所が流れ、「〇〇町の〇〇道路は一時封鎖されています」などのニュースが流れると、非常に不安になりました。

東京の私のマンションの近くのコンビニやスーパーは、軒並み、品切れでした。

 

家族は、震災から二ヶ月後、実家に帰った私を労ってくれました。

こんなに大変なことがあったのに、自分を労ってくれた家族に、私は今でも言葉で言い表せないような気持ちになります。

 

こうして、自分や家族が無事で入られたことは非常にありがたいことです。

しかし、自分だけが、あの日、遠く関係のない場所で、のほほんと過ごしていたことが、ずっと引っかかっていました。

私はその年の初夏、東北にボランティアに行くことにしました。

 

きっかけは友人が誘ってくれたことでした。

その時の気持ちを、論理的に言うことはできませんが、「行かなくちゃ」そう思いました。

陸前高田に行きました。

高校の同級生の実家があり、泊まらせてもらったこともあって、思い出のある土地でした。

私の大学のボランティア班は数人のグループに分けられました。

私は、山あいの田畑の瓦礫を撤去する班になりました。

 

考えてもみてください。

山あいの田畑です。

海抜よりずっと高いところにあります。

それなのに、

それなのに、

その場所にあるはずもないものがたくさんありました。

トイレの便器

システムキッチン一式

長靴の片割れ

家の屋根

卒業アルバム

 

卒業アルバムは、水を含んで膨らんでいました。

アルバムの最後には、友人からの寄せ書きがありました。

おそらく、持ち主と思われる方の名前もありました。

 

私は、それをボランティアセンターに持ち帰り、地域の方に預けました。

 

それからさらに3年ほど経ちます。

私は大学院生になりました。

 

私は環境・エネルギー研究科、というところに入りました。

私はそれまでまちづくりの勉強をしていましたが、 JCOや東北のことがこの時になって強く思い出されました。

エネルギーとまちづくりをつなげて考えたいと思った気持ちも少しありました。

 

私は自分が師事していた教授を非常に慕っていました。

その一方で、環境経済学、というものを担当している関西出身の非常に面白く温かい先生に出会いました。

彼をきっかけに、私は再び、東北の地と関わることになりました。

 

私たちがメインで訪れるのは福島でした。

私は茨城出身ですから、福島は幼い頃から行っています。

そういう土地に線量計を持ちながら、行ったのです。

 

塩害にあった土地でも育つ作物を一緒に考えたりしました。

福島県内を一緒に回ったりしました。

 

東北の大部分では復興が進んでいます。

ですが、つい、2年ちょっと前、訪ねた福島は、数年前の3月のままの場所がたくさんありました。

人の営みの気配をそのままに、動物が気ままに歩いている場所もたくさんありました。

その当時、撮った写真はたくさんありますが、私は、皆さんの故郷をここに無防備にあげる気持ちには、どうしてもなりません。

 

 

陸前高田にボランティアに行った時、私は少し心のバランスを崩して、引率してくれた講師の先生と衝突しました。

それと似た気持ちは、今でもあります。

 

 

 

私の実家は、兼業農家だと、少し前に書きました。

私の名前は穂奈美と言いますが、この稲穂の穂は、田植えの時期に生まれたからなのです。

植えた稲がたわわに実りますように。

そうして、穂の漢字をつけたと両親は言います。

私は、その名前の通りかどうかは知りませんが、未だにゴールデンウィークは実家に田植えに帰ります。

父が田植え機で、ゆったり田んぼを往復します。

私はブックオフで買った、安い文庫本を片手に草むらで寝転んでいます。

5月の明るい風が吹き抜けます。

私は本を鼻のあたりに載せて、空を見ます。

そして、幸せだなあと思います。

ああ、父が帰ってきた。

苗箱を渡さなくちゃ。

本を草むらに伏せて、父に苗箱を渡します。

振り返ると、本にバッタがのっています。

 

そして、私は思うのです。

 

暮らすとは、こういうことなのでしょう。

 

 

人は、自然の中で、自然に寄り添うように暮らす生き物なのです。

 

自然を掌握する、ということは難しいことなのかもしれません。

 

 

まだ、明確な答えも、行動もできませんが、そういうことを思っています。

 

 

つくることば、とどけることば

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こんばんは!

 

米がなくなったので、「コメをください」と母親にLINEしたところコメと水出し麦茶にまみれて指輪が送られてきました。

「似合いそうだからいれてみました」というメッセージが添えられていましたが、おそらく飽きたんだと思います。普通は水出し麦茶を緩衝材にして指輪を送ってくることはしないと思います。

本も入っていましたが、これも私に読んで欲しいのではなく、単純に読み終わったからいらなくなったのだと思います。

一人暮らしの私の家は狭いのに、いらなくなったものをなんとなく送ってくる母。

私の誕生日なのに、自分の誕生日の日付が入った謎のバカでかい馬のぬいぐるみを送ってくる母。

母とは奥深い生き物です。

 

 

 

 

今日はほぼ定時に会社を抜け出し、五反田に行ってきました。

 

そこでしか買えないものがあって、どうしても行く必要があったのです。

 

五反田は我が家の最寄りからも近いので、ブーンと行ったわけですが、建物が見えてから店に行くまでのハードルが異様に高かった。

 

 

だって、着くなり、3階が地上階という不思議構造で、一見グランドフロアに見える3階にはオフィスが入り、一見地下に見える2階にはレストラン街、ユニクロ、などと書いてある。

 

 

 

恐る恐る入っていくと、案の定、すぐに道を見失いました。

 

 

だって、入るなり給湯室あるし、完全にオフィスだと思うじゃない?

 

 

思うよね?

 

 

怯えてスマホで目的のお店のホームページを見て見ると、やはりこのビルの3階と書いてある。

 

 

嘘やろ……、と顔を上げると私が立っているのはその店の前でした。

 

角度的にお店の看板が見えなかっただけで。

 

本当にスマホに慣れるというのは恐ろしいものです。

 

そして、私は目的の店で目的のものたちを買い、ちょっと足りないものを同じ建物の文房具屋さんで買い揃えました。

本当は世界堂にも行かなきゃならんかと、ひっそりうんざりおばさんだったのですが、この(失礼だけど)若干廃れているように見えるビルで揃いました。

いわゆる前時代のデパートというか百貨店の様相で、小割された地下にレストラン街がある、ほんと「いわゆる懐かしいタイプのデパート」なのに。

 

この建物はいればいるほど、不思議が募る建物でした。

 

だって、そんな感じに廃れている割には、目的のお店の品揃えはすごく豊富だし、「少したくさん購入したいのだけど、まとめて発注できますか?」と聞くと、「はい! もともと卸なので!」と言われたし、お姉さんは道具にとても詳しかったように思える。

 

とはいえ、不思議は不思議だが、必要なものが全部揃って帰り道の足取りは軽い。

 

 

帰りの電車で検索して見ると、どうやらここは「五反田TOCセンター」というらしい。

 

 

TOC

 

なんの略だか、わかります?

 

なんと……

 

東京 卸売 センター!

 

私、ひっそりと感動しました。

 

だからなのか、と。

 

あの不思議構造はもともと倉庫機能もあったぶんの、荷入れなんかも考慮した作りで、上のオフィスフロアは卸業者さんの事務所なのか。そして、今日買い物した場所は、業者同士で買い付けをするエリアだったのか。

 

なーるほど。

 

 

ユニクロや100均が所々入っていたのは、今の時代の流れに影響されているからであろうと思われます。

 

問屋街として有名な馬喰横山のあたりも、今ではかなり問屋業そのものが下火である。

それは、かつてジャスコが問屋部分の業務を中抜きすることで価格を下げることに成功し、それは当然のごとく庶民の圧倒的な支持を得て、革命的な速さで問屋業は衰退していったから、らしい。今ではジャスコはすっかりイオングループになったが、その傾向は変わらないままだ。(調べが甘いから違かったらごめんなさい)

 

問屋街って馴染みがないけど、調べるととても興味がわく。

 

例えばこんな記事とか。

www.timeout.jp

 

今までは一般市民はあまり縁のなかった問屋街や卸売業者さんだが、今では時代の変化によって小売も行います、というところが増えている。

現在、馬喰町などの問屋街を歩くと「小売りしてます」、「小売りお断り」などの表示があるのも、新鮮だ。街歩きが好きな人ならば、そんな気付きも楽しいのではないだろうか。

問屋街はある意味、今の時代だからこそ身近になったものの一つだと思う。

 

ただ、五反田TOCにしてももう少し工夫をしたたらもっと良くなりそう、という部分がないというわけではない。

 

フロアをふらふら歩きながら、どうしたら良いだろうと考えていたのだけど、ここを活性化させよう! と言ってイマドキのおしゃれな感じにするのも違う気がする。ここはここでそれなりに店舗が回っていればいい、けどあと少し、という感じなのだ。

 

きっとTOCは少し特別だけど、元気のなくなってしまったかつての専門店街があるようなデパートはたくさんある。

そこはそこで品揃えがいいし、店員さんも詳しいし、それでいい。

けど、ご飯を食べたりするなら、そういうところのレストランよりは風の心地いい、オープンテラスとかで食べたい気もする。

さらにいうなら、日用品を揃えるならイオンやヨーカ堂の方が楽だ。

 

使い勝手がいい場所、そこにいて心地のよい場所、目的を的確に果たせる場所。

 

そういう場所が一つの建物で作られるのではなく、エリアを繋いで考えていけたらとてもいいな、と思いました。

 

なので今日は、しっかりとした目的があって行ったので、バッチリ目的を果たせてとても満足な日となりました。

 

そんな私がいそいそ買ってきたものは、篆刻に使う材料です。

 

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前世ぶりに彫りました。

 

ちなみに印泥って結構可愛いのです。

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 開けるとこんなんです。

ねりねりして使います。

(練るのが楽しくてぼうっとしてると無限に練ってしまいます)

 

きっと昔の人は「文字を書く」と言っていただろうけれど、今私は「文字を打つ」というだろうし、今日は「文字を彫っていた」。それに私は時に「文章を読み上げる」こともある。

 

文字はとても自由だ。

 

そのとき、自分が一番伝えたい形、一番伝えられる形でつくっていければ一番いいと思っている。

 

今日はゴリゴリゴリゴリ、たった一文字のことだけをずーっと考えて「ことばをつくって」いた。

 

一文字作るのに、3時間もかかってしまった。

 

3時間あればパソコンならば5000字は書ける。

 

けれど、この一文字は5000字に劣っているとは思えない。

 

今日彫っていたのは稲穂の「穂」。

 

長い間印刀を握って手が疲れてきた頃ようやく彫り終わり、おろしたての印泥をつけてそうっと紙に押す。

 

そして、ゆっくりはがしていく。

 

字を見て、子どもの頃、クリスマスプレゼントをもらった時みたいに無邪気に嬉しい気持ちになる。

 

なかなか印泥の加減が難しいけれど、久しぶりにしては頑張った。

 

 

ことばも今日歩いてきたような場所も、いちばんその良さが伝わる形で届けられる何かをつくりたい。そして、届けたいな。

 

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ほ、ほ、ほ。

 

同じ形のハンコでも、同じに見えるものは一つもない。

 

 

 

全部変わっていくけれど、その時その時のいちばん「いいかたち」があるはずなんです。

 

 

 

さて、今回はじっくり作りすぎ、時間がかかりすぎるのが課題だと判明したので、今週末は素材を変えてやってみるとしよう。

 

おやすみなさい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

美味しい干し柿、ぼろぼろの本

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ほんとうは、今書くべきことはもっとたくさんあるのかもしれない。

いや、あるのだ。

棚上げにしすぎて、干し柿だったらいい食べごろだ、というくらいに熟成されてしまったやつ。

 

しかし、今日もそいつらを美味しく熟成させるままにして、すきなことを、すきなだけすることとしよう。

 

 

うちの本棚には、数冊に1冊、ぼろぼろの本がある。

 

 

小さい頃は、なかなか自分のすきなようには本を手に入れられないから、本をとても大切にしていた。

それに、小さい子に向けた本は絵や装丁が、たからものみたいにきれいな本が多いのだ。

 

しかし、中学生、高校生、本を自分の気まぐれに買えるようになってから、本をだんだん自分のものにすることがたのしくなった。本をどんどん「使って」自分のものにするのだ。

 

知らない言葉に丸をつけたり、気に入ったところを折ったり、そうしているうちに、本は気まぐれな私のきもちそのままの見た目になっていった。

それに、分厚い本は私がすてきな午後に誤って、まるでお昼寝のためにしつらえたような木陰を見つけ、緊急に寝なければいけない時の枕にもなる。

 

そんないい感じにくたびれたおじさんみたいな本たちに紛れて(私はあまりにもピチピチでツヤツヤのおじさんは信用したくない。おばさんもそうだ。適度にシワがあるくらいでちょうどいい。)、外で暗くなるまで遊んできたちいさな男の子みたいな奴が混じってる。

 

 

 

 

文明の進歩は目覚ましい。

うちのじいさんが子供の頃には家族総出で、手で田植えをしていたのに、じいさんがおじさんになる頃には、手押しの機械で田植えをするようになった。じいさんが若めのじいさんになる頃には、車みたいに乗って植えられる田植え機ができた。

 

じいさんが子供の頃は日本という国が貧しかったから、一つの田んぼで一粒でもたくさん、と思って田植えをした。四隅の方まで隅々と。

手押しの機械になっても、乗れるタイプの田植え機になっても、その頃の気持ちは消えないのだろう。

今の機械の効率じゃ、ずっと1枚の田んぼを荒く植えて、枚数を増やした方が効率的なのに、割と最近までばあちゃんは、機械の入れない隅っこを手で植えていた。

 

一つの田んぼで、一粒でもたくさん。かぞくで食べるたいせつなお米ですからね。

 

ばあちゃんのその非効率を私は現代っ子の代表として「非効率だ」と笑っていて、ばあちゃんは私にそう言われるたびに「もう癖だから仕方ないんだもの」と拗ねていた。

 

「はじっこがすかすかだとね、なんかそわそわしちゃう」

 

機械の効率はますます上がり、とうとう何ヘクタールにも及ぶ田植えは、家族が二人いればできるようになってしまった。

 

一人は田植機を運転し、一人は田んぼの外側で時折なえ箱をわたす。

苗箱を渡す方は、もう一人が帰ってくるまで暇なのだ。

 

私の家では、私の父が運転し、私が渡す係であった。

私は車の免許を取得して、一層効率的に父を助けることができるようになった。

 

小学生の頃、いちいち苗箱を足で運ばなくてはならなかったから、私には休む間もなかった。

時々疲れてあぜ道に寝転んで空を見たりした。

 

最近では必要なところまで軽トラで運ぶからあっという間だ。

 

父が戻ってくるまで暇を持て余して、軽トラのドアを半ドアにして本を読むようになった。

 

5月の風に吹かれながら、陽の光で読む読書は素敵だ。

 

もう少し前までは、父の田植機に並行して、機械では植えられない場所を手で植えるじいちゃんとばあちゃんがひっきりなしに話しかけてきて、全然、ページが進まなかった。

 

今ではじいちゃんもばあちゃんも年をとり、めっきり農作業ができなくなった。

私の積読はぐんぐん消費されていく。

 

 

 

 

 

今日も日差しが強い。

水鳥がご飯を食べに遊びにきている。

田植えのためにうすく水を張った田んぼは、風でさざめいて、きらきらしている。

 

 

 

 

びゅうっと耳元で、5月には珍しい強い風が吹いた。

私は驚いて顔を上げる。

 

父が黙々と植えていた。

 

 

「非効率」がない田んぼは少し寂しかった。

 

 

 

家に帰るとその日読み終えた本を本棚に置いた。

 

ぼろぼろの本の割合が昔よりも増えた。

 

 

「今日も暑かったねえ」

 

「うん、お疲れさまでした」

 

じいちゃんが夕飯を食べながら私にお茶を渡す。

 

「暑くて海にでも入りたいくらいだったよ」

 

「じいちゃんが子供の頃はうちの前の川に飛び込んだものだけど」

 

「そんなに綺麗だったんだ?」

 

「ウンときれいだったよ。一番深いとこの底が見えるくらい」

 

「昔は良かったんだねえ」

 

「そんなことはないよ。なにごととも、時代時代で変わっていきますから」

 

うちのじいちゃんは昔はよかった、とは言わない。

 

「あなたたちには、あなたたちの時代のいいことがあるでしょう」と目元をシワシワにするだけだ。

 

 

私たちの時代の、私たちが作る「いいこと」ってなんでしょうか。

 

私にはまだそれがわかりません。

 

毎日考えます。

 

しかし、今日ひとつ、すてきな言葉をもらいました。

 

「人生は、本当はみんな手作りなんです」

 

 

この言葉はきっと、これからも自分を支えてくれるような気がします。

 

 

自分の大きさなんてたかが知れているけれど、新しい出会いを恐れずに、その出会いの反響で自分を測り、理解しながら、そして、今まで、出会った人に向き合いながら、長い目で手作りしていこうと思います。

 

もうそろそろ、梅雨が来ます。

 

梅雨が来たら、あっという間に夏です。

 

夏にエネルギーを爆発させるために、最後の最後の助走をつけようと思います。

 

 

 

 

あの日、太陽の塔が、君を変えてしまった

 

あれはある日の夕方頃だったでしょうか。

ジャスが流れるすてきなカフェで君とおしゃべりをしていたのは。

 

何気ない会話だったのです。

最近、わたしが文書を書いてるものですから、ふと君に尋ねたのです。

君は仕事の合間を見つけてよく読んでくれていました。

 

「最近、みんなに気軽に楽しんでもらいたいって思って書くのも楽しいし、何か真剣に静かに書くのもどっちも楽しいんだよね。君は読んでてどっちが好き?」

 

すると、それまで和やかにおしゃべりを楽しんでいたのに、君はカッと目を見開いてこう言ってきたのです。

 

 

 

「お前、太陽の塔のこと、忘れてないよな? ああいうお前の側面しかなかったら、お前、やばいやつだから。 だから、どっちも書けや」

 

 

 

太陽の塔……。

 

ああ、あの日のことです。

 

やっぱり君は、覚えていた……。

 

許してもらえると思ってた。

 

嗚呼、優しい日差しの中の午睡のように、それは淡い夢だったのか。

 

 

 

あれは暑い夏の日でした。

 

まだ学生だったわたしが夜行バスを降りるなり、蝉の声がわんわんと降り注ぎ、押しつぶされてしまいそうでした。

 

そうです。

4年前のあの日、私たちは大阪に転勤になった君を訪ねて、仲の良い友達と3人で大阪に行った時のことでした。

 

私たち3人は、大学院に行くなどして、まだ学生でした。

君だけが、社会人でしたし、また、縁もゆかりもない土地で一人頑張る君を応援したいと思い、ちょうど君の誕生日だったことも合間って、3人で東京から会いに行ったのです。

 

私たちはまず、お腹も空いていましたので、道頓堀のあたりに行こうと言いました。

そこで、グリコのポーズをしてみたり、くいだおれ人形と仲良くなったりしながら、美味しいお好み焼きを食べ、愉快な時を過ごしていました。

あの時食べたお好み焼きは、東京で食べるそれよりもずっと美味しいものでした。 

 

 

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これは、友人の一人、はるちゃんです。

右は、くいだおれ人形さん。

 

 

お腹も満たされたことだし、と私たちは次の行き先を考えました。

 

「そうだ! 太陽の塔みたい! そういえば、今はひまわり畑もすごいらしいよ!」

 

誰が言ったのでしょうか。

 

誰が言い出したのか、記憶は定かではありませんが、大阪万博記念公園に行くことにしたのです。

 

あの日は溶けるように暑かった。

若干溶けていました。

いや、ほとんど融けていました。

 

しかし、初めて見る太陽の塔は不思議な吸引力がありました。

 

 

 

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「ウェーイ!」

 

太陽の塔ごっこをしたりもしました。

 

この時の感動が、私たちを狂わせて行くとは、ついに気がつくことはなかったのです。

 

 

 

その日は大阪市内で美味しい串揚げを食べ、私たちはホテルに戻り、翌朝神戸に向かいました。

 

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わたしは夜が賑やかな街がすきです。

人の暮らしの気配がするから。

 

 

 

さて、神戸に着きました。 

 

神戸には北野異人館街というすてきな場所があります。

わたしは家族とも訪れたことがありましたが、雰囲気がすきで二度目となる今回も瑞々しい気持ちで楽しんでいました。

 

異人館街の雰囲気はこんな感じです。

www.kobeijinkan.com

 

さて、異人館の冷気にも癒されながら、真夏の神戸を散歩するのはとても楽しいものでした。

レンガ模様の道も建物も、遠い異国の気配とともに、甘い神戸のノスタルジアに満ちていました。

 

この写真は、うろこの家だったでしょうか、とある館の中で撮った写真です。

 

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左がみーちゃん、右がのんちゃんです。

 

のんちゃんの目がキラキラですね。

神戸の郷愁に心が躍ったのでしょうか。

いいえ、違います。

のんちゃんがこういう目をしているときは、だいたい悪いことを考えています。

わたしが以前こんな目をして言われたことは「ビールかけしよう〜」でした。

「おさんぽしよう〜」とか「お茶しよう〜」と同じ穏やかさでで言われるので、ついつい快諾しがちです。そして、それは彼女の美徳でもあります。

蛇足になりますが、みーちゃんはのんちゃんやわたしがこういう目をしてるとき、水鉄砲で水をかけられたりすることが多かったからでしょうか。少し嫌な顔をします。愛は「愛してる」と言うことだけではないのです。

 

我々は普通の旅行のように観光をしていましたが、何と言ってもその日はみーちゃんの誕生日でした。

学生だから、あんまりお金はない、でも、何か素敵なプレゼントをあげたいね、私たちはそう思い立ち、六甲ケーブルに乗って、22才最後の夜に夜景を見に行くことにしました。

 

神戸の夜景には品があるような気がします。

様々な人々の人生が織り成されて作られた奥行きのある暮らしの様式、そう言うものを堂々と体現しているような美しさです。

私たちは、夜景の余韻をそれぞれの胸に残しつつ下山しました。

いよいよお祝いです。

 

サプライズで予約したお店に行きました。

 

夜景の余韻も手伝って我々三人は上機嫌で祝い、彼女もまた、上機嫌でワインを飲みました。

 

 

 

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しかし、社会人と学生です。

彼女は疲れていたに違いありません。

 

ホテルに帰ってからも、ガンガン飲みまくる私たちの脅威にさらされ、みーちゃんは「あ〜もう、わたし無理〜」とベッドに倒れ込んでしまったのです。

 

嗚呼、わたし達はなんて愚かだったのでしょうか。

 

なぜか既にお気持ちが悪くなられているみーちゃんのベッドに飛び乗り、謎の踊りを始めたのです。

 

以下、わたしが個人的に今はまっているhitomiさんのLOVE2000を流しながらお届けします。ぜひおかけになりながら、以下お読みください。

2006 hitomi (LIVE) LOVE 2000 - YouTube

 

↓その時の様。

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©️のんちゃん画伯

 

〜愛は どこからやってくるのでしょう 自分の胸に問いかけた〜 (LOVE2000) 

 

右上がみーちゃんです。

 

みーちゃんは両手を目の当たりにかざし、気持ち悪そうです。

 

みんなで心配そうにみーちゃんをじっと見つめます。

 

みーちゃん……。

 

みーちゃんの腕の形、なんだか…太陽の塔みたい…。

 

そう思い、わたしはそっとみーちゃんの手にワインボトルを握らせました。

 

これがのちの太陽の塔事件です。

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©️のんちゃん画伯

 

〜夢は いつでも膨らむばかりで 誰かの想い、無視してた〜 (LOVE2000) 

 

 

 

何を思ったのでしょう。ワインボトルをそっと握らせた後、わたしは、柿ピーを食べればみーちゃんは元気になるのではないか、そう考えました。

 

なので、その後、なぜか一粒ずつ柿ピーを食わせるという奇行に打って出たのです。

愛情ゆえの混乱としか思えません。

 

 

 

ああ、長くなってしまいました。

 

 

これが、みーちゃんの激おこ案件、「太陽の塔事件」です。

 

なるほど、なるほど、わたしは何やら一生懸命水素がどうの、とか、学生運動がどうのなどと書いていますが、太陽の塔事件の犯人もあるわけです。

 

確かに、わたしがありとあらゆる人にひたすら柿ピーを食わせ続ける奇怪なやつであったのならば、友達などできなかったかもしれません。

 

だから、君は両方書け、と言ったのですね。

 

ちなみにこのみーちゃん、以前書いたこの記事のミサキと一緒の人です。

honaz.hatenablog.com

こんな話をした後に、「どっちがいい?」なんて聞いたので、きっとドキドキしちゃったのでしょうね?

 

人間は多面的な生き物です。

その多面性が、思わぬ化学反応を起こすこともあります。

 

ある一面で理解できなかった人を、また別の側面を知ることで、大好きになることもあります。

新たに知った側面によって、他の側面の意味を知ることもあります。

 

だから、わたしは自分の意見を持ちつつも、なるべく否定だけに終始する人間にはならないようにいたいと思います。

 

 

 

(最後にとっても嬉しかったから報告させてください)

「平成生まれの大人になり方」の記事ですが、わたしが密かにハイセンスな写真の数々でひっそりInstagramのファンになっている早稲田大学の渡辺仁史先生にいいね!と言ってもらって、出社前に喜びで部屋をひとしきり駆け回りました。

先生とは一度お会いしたことがあります。

 

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わたしはこのような伝統ある装束で伝統ある早稲田大学の卒業式に臨んでいました。そして、何の関係もない、先生の研究室の懇親会に乱入しました。そして、たすきには「スケベ代表」と書いてありました。

そんなやつと記念撮影してくださった先生のお心の広さは、すでに解脱していると言ってもいいでしょう。

 

ああそうでした、この記事、みーちゃんもシェアしてくれたのです。

とても嬉しかった。

今週、神戸旅行のメンバーで旅行に行きます。直接、お礼できるのが楽しみで仕方ありません。

 

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友情は素敵です。

 

いつまでも、友達を大切にしていきたい。

 

そう思っています。

 

〜愛はどこからやってくるのでしょう 自分の胸に問いかけた

 ニセモノなんか 興味はないワ 本物だけ 見つけたい〜 (LOVE2000)

 

 

 

 

 

 

平成生まれの大人になりかた

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むかしむかし、世界には大きな壁がありました。

 

その壁は大きく、その壁の向こう側に行ったり、こちら側に行ったり、そういうことを気軽にできないほどです。

 

一度壁の向こうに行ってしまうと、二度と戻ってこれないこともよくありました。

 

だから、多くの人は、壁を越えようとせず、壁に石ころや、卵なんかを投げつけ、壁と戦っているような気になれれば満足でした。

 

ときには、血気盛んな若者が、力いっぱい壁にぶつかる、なんてこともありましたが、彼も大人になるにつれ、壁にぶつかるよりも、自分の住む社会に馴染むことで忙しくなりました。

 

村上春樹は、みんながその壁に、卵や何かを投げつけているのを随分眺めた後、「ぼくは卵の側でありたい」と言いました。

 

 

 

 

村上春樹の小説はすきですか。

わたしは好きです。

ハルキストか、と言われると首を傾げますが、長編小説は全て持っていますし、「もしぼくらの言葉がウイスキーであったなら」のような紀行文をラフロイグ片手に読んだりもしました。

 

私は元々、好きな作家を作家買いする傾向があり、森博嗣恩田陸辻村深月、その他何人かの作家もほとんどすべての本を持っていると思います。

 

だから、ハルキスト、というよりは、村上春樹は、すきな小説家の1人です。

 

 

ただ、私の読書の仕方を決定的に変えた作家は村上春樹でもあります。

 

 

小学生までドリトル先生シリーズやシャーロック・ホームズ江戸川乱歩ハリーポッターを、夢のような異世界への扉として、とても好んでいました。宮部みゆきなども大変すきでした。

 

 

ページの先で私は何処へだっていくことができたのです。

 

 

私が、あの本を手に取ったのはいつのことだったでしょう。

おそらく、中学校の1,2年の頃だったと思います。

 

 

その本は「海辺のカフカ」といいました。

 

 

その本は、私にとって、革命とも言えるものでした。

 

 

感情や思考を、ある意味無機質な、淡々とした表現で連ねる。

 

 

世界はメタファーだ、なんて、解釈に無限の可能性があります。

 

 

ふつう、「ぼく」は壁を抜けませんが、村上春樹の描く主人公は、壁を抜けるのです。

 

 

「内」と「外」

 

 

これは、彼の一つ、普遍のテーマであると思います。

 

 

海辺のカフカの表現がすこし大人びていたからでしょうか。

クラシックなどわからないのに、躍起になって聞こうとしてみるような背伸びの仕方、でも、自然な興味で、わたしは初めて本について調べる、ということをしました。

 

 

まずは「メタファー」などの言葉です。

 

メタファーは隠喩という意味でした。

 

 

次に「カフカ

 

 

わたしはフランツ・カフカの作品を何冊か読みました。

 

 

変身、などはとても興味深い話でした。

だっていきなり主人公が虫になってしまうのですから。

 

 

いくつかの作品を読みながら、海辺にいるカフカはなにをかんがえているのだろう、そんなことを考えました。

 

 

わたしは海辺のカフカを皮切りに、村上春樹の作品を次々読んでいきました。

いまでも、ハードボイルドワンダーランドなどはだいすきです。

一方で、ノルウェーの森などはあまりすきになれませんでした。なぜでしょうか、それは今でも謎ですが。

 

 

大学生になった頃、1Q84が出ました。

わたしは、多崎つくるや1Q84について、かつてのように熱狂的に読めませんでした。

私の大学での恩師も、村上春樹がすきで、よく研究室でそれぞれの感想を言い合ったりしていました。

 

 

先生はあるとき言ったのです。

 

エルサレムの受賞スピーチで、村上春樹は、『もし、硬くて高い壁と、そこに叩きつけられている卵があったなら、私は常に卵の側に立つ』といっていましたね。

そして、ぼくは、1Q84を読みました。

おそらく、彼は何かひとつ、答えを見つけたのではないでしょうか。答え、とまではいかなくとも、ひとまずなにか、見つけたのでしょう」

 

 

なにかひとつ、答えを見つけた。

 

 

先生のことばの意味をゆっくり考えたくて、私はそれ以上質問しませんでした。

 

 

 

 

わたしはしばらくして、宇野常寛さんの「リトルピープルの時代」という本を友人から貸してもらうことになります。

 

 

これは1Q84について書かれた本です。

 

 

この本では、ジョージ・オーウェルの「1984」を一つの切り口に語られています。

 

しかし、視点がたくさんあるので、私なんかの拙いまとめではなく、ぜひ読んで頂きたいとも思います。

 

さて、宇野さんが言うところによれば、かつて、ジョージ・オーウェルの言うところのビッグ・ブラザー、すなわち社会主義におけるリーダーがいました。

世界は民主主義、社会主義に二分されていました。

しかし、ベルリンの壁の崩壊の頃を境として、世界は明確な二項対立ではなくなっていきます。

 

もちろん、世界にはまだまだたくさんの、小さな渓谷、崖のような狭間があります。

 

でも、分かりやすい「壁」はなくなった。

 

世界が二分されていた頃、その壁は、壁の間近にいなくとも、人々の心に影響を与えることがありました。

 

日本で言えば、学生運動です。

 

学生たちは、盛んにマルクスなどを論じました。

その学生達は、あっという間に高度経済成長の波に飲まれ、モーレツサラリーマンとして、自然と資本主義に馴染んでいくことになったのですが…

 

かれらは、何を論じていたのでしょうか。

彼らの多くは、10代や20代でした。

「自分」について、社会と照らし合わせて、初めてよく考えてみる年代でしょう。

そして、そこに圧倒的な壁がある。

その壁は一つですが、その壁のどちら側に立つかで、壁のどちらかが表となり、裏となります。

そして、壁の裏は、言い換えれば、悪。敵となり得ます。

 

彼らは、自分というものを、相対的に捉えようとしました。

自分が思う「悪」に対する自分の正義、それがぼくの考え方、生き方だと。

 

しかし、彼らの熱狂的な時代は、先ほども言ったように、ベルリンの壁崩壊の頃から次第に収束していきます。

 

さて、次の時代、彼らと同じ世代の若者はどうしたのでしょうか。

 

彼らは「自分さがし」をしました。

 

世界で、ヒッピーなどが流行ったのもこの頃でしょう。

インドブームもありました。

 

自分さがし、の基本的なスタンスは「本当の自分を探す」ことですから、まず絶対的な自分、があることが前提です。

 

しかし、それを探すのは、なかなか難しいことです。

私はそう思います。

 

私は自分の環境や出会った人々に影響を受けます。

自分の根っこのようなものはあるかもしれません。

しかし、そのような出会いによって変化した、幹や葉を抜きに、ほんとうの自分など語れないでしょう。

 

そしてやはり、この潮流は、また、収束を迎えていきます。

 

 

やっとわたしたちの時代に追いついてきました。

 

 

わたしたちの時代は情報過多、などと言われます。

 

インターネットで世界中の情報にアクセスできるからです。

情報を読み流すことに慣れて、受け身だ、なんて言われます。

 

 

しかし、そうでしょうか。

 

 

私は小さな相対の時代にうつってきたのではないかと思います。

 

このことについて、随分長い間、どういうことか自分の中で言葉になりませんでした。

 

しかし、私は、ある日友人と食事をしながら、気がついたのです。

その友人の選択が、そうなのではないかと。

 

その友人の名前はミサキ、と言いました。

彼女は大学のサークルで出会ったのですが、誰ともそつなく過ごし、みんなのまとめ役でもありました。

出会った頃、わたしはまだ18歳でした。

ミサキのことは好きでしたが、率先してリーダー役をやるとなると恥ずかしく、すこし斜に構えている自分がいました。

 

そんなミサキは優等生でありながら、一緒にふざけることもできる不思議な友人として、幾年かを共に過ごすことになります。

斜に構えていた自分がいたからでしょうか、幾度となくふざけあうことはできても、出会って8年目に至るまで、真面目な話などしたことはありませんでした。

 

彼女は社会人になり、遠くに転勤となりました。

ある時、彼女が東京に帰ってくるというので、二人で食事に行くことになったのです。

 

二人で食事をするなんて、初めてです。

ずーっと遊び仲間だったのに、だいぶ大人になってから、ご飯を食べることになりました。

 

なんてことはない会話をしていました。

美味しい料理と美味しい日本酒を肴に話す、その空気が二人の関係を親密にしたのでしょうか、わたしは思いがけず、彼女に聞いてしまったのです。

 

「ミサキはいつもしっかりしているけど、昔からそうだったの?」と。

 

ミサキは「ふふふ」と笑って答えました。

 

「本当は、君に似ている人間だったと思う。でも、ある時、変わったの」と言いました。

 

ミサキは日本酒を淡々と飲みながら、同じ気配でひっそりと話してくれました。

 

 

あれはわたしが中学生のことだったかな。

わたしの学校は中高一貫の女子校でね。

わたしも中学生の時には、すこし不真面目、そんな人がかっこいいと思ってた。

けどね、ある時、中学校の親友が転校してしまったの。

わたしは、そんなに広く浅い友人関係ではなかったから、急に孤独になってしまった。

もちろん、本当の一人ではないのだけど、心から気を許せる友人がいなくなってしまった。

それは13歳やそこらのわたしとしては大きな問題だった。

 

あの頃の年代って、ちょっと不真面目でワルぶっている方がかっこいいという風潮があるじゃない?

わたしの学年はそれが顕著で、生徒会選挙をしても誰も立候補をしなかった。

なぜかわからないけど、わたしはそれを見て、立候補しなきゃと思ったの。

そして、気付いたら、生徒会に入り、翌年には生徒会長になっていた。

 

わたしの学校、頭のいい子が多くてさ、わたしなんか、勉強が得意ではない方だったから、生徒会長になった途端、陰口を言われたりした。

内申点が欲しくて、生徒会長になったんじゃないか、とかね。

でも、わたし、ある日思ったの。

 

「普通で、何が悪い」

 

「真面目で、何が悪い」ってね。

 

かつて、わたしも斜に構えてた。

でもね、自分なりに学校生活をもっと楽しくしたい、みんなにも楽しんでもらいたいと思って、真面目に振る舞うのって何が悪いの?

 

わたしは、わたしなりに自分はこれでいいんだ、と思ったの。

それだけ。

 

そこから、今のようなわたしになったのかもしれないね、彼女はそう言い、日本酒をぐびり、と美味しそうに飲みました。

 

わたしは、それを聞いて思ったのです。

ああ、これが私たちの世代の、自分に対するアプローチなのではないかと。

 

私たちは、昔よりも容易にその壁を乗り越えることができます。

 

例えば、ミサキならば斜に構える自分と、真面目な自分です。

 

彼女にはもともと両面があります。

しかし、彼女は、彼女の中で相対的に自分を見て、真面目なわたし、それもいい、と「なりたいわたし」を選び取ったのです。

 

人は好きな人に対して、自分を良く見せようとします。

もしも、本質的に亭主関白な男性がいたとして、好きな女性に、最初はとても紳士的に接するでしょう。

彼らが幸運にも、付き合うことになったとして、彼が彼女を大好きになった時、彼は選択するはずです。

素の自分、しかし、彼女が好きになってくれた自分とは少し離れた自分。

彼女が好きになってくれた、紳士な自分。

彼は、もしかすると、彼女を失う可能性を高めるよりは、本来の自分とは少し離れた自分になりたいと願うかもしれません。

 

私たちは、いろんな情報にアクセスできます。

それはすなわち、いろんな人生のモデルケースをトレースできるようになったということでもあります。

さらにそういうツールをうまく使えば、実際に「なりたい」と思える誰かに会いに行くこともできるようになりました。

 

だからこそ、本当の自分より、「こうなりたい自分」を想定しやすくなったのです。

 

本当の自分、つまり絶対的な自分より、なりたい自分、つまり相対的な自分を見つけて、それに近付こうとする、それが我々世代の大人へのアプローチなのかもしれません。

 

わたしは、毎日いろんな人に会います。

 

いろんな人と話します。

 

わたしは、いったい、どこに行きたいのでしょうか。

 

小さな相対の世界で、小さな反証を続けながら、小さく歩を進めたい、進められたらいいな、そう思いました。

 

 

 

 

プレデターの思考設計

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寝る間際、あとすこし起きてようかな、と思いつつ、ほとんど寝る支度はできているのに、適当にテレビのリモコンを回しながら日曜の夜を惜しんでいた。

その時である。


人間が、得体のしれない生き物にめちゃくちゃにぶちのめされていた。

正確には覚えてないけれど、あれはきっとプレデターシリーズだったと思う。


主人公は宇宙の怪物みたいなプレデター達と死に物狂いで戦っている。

 

けれども、どうも、一番肝要なプレデターがちょっと間抜けで、シーンとしてはシリアスなのにちょっと笑いながらみてしまった。

たぶん、同じように誰かが死に物狂いで戦っている状態が、人相手の映画だったらわたしの反応は違うものだったかも知れない。

私は、決して笑っては見れなかったはずだ。

じゃあ、なんで笑ってしまったのか。


それはたぶん、プレデターが滑稽だったせいもある。

 

そしてそれ以上に、プレデターが「理解できない存在」だったからだ。

映画の中で主人公はプレデターが何を言ってるとか、何を考えてるとか、理解はできない。

理解できないことに加えて、滑稽な見た目、絶対あり得ないよね、というシチュエーション、こういうことが相まって、私はお気楽にあの映画を観れたのだろう。

理解しなければ、寄り添うものがない。

私たちには共有すべきものがないのだ。

では、私たちは、等しくそこにあるはずの命に対して「理解」をしたとき、感情移入をするのだろうか?

理解とは言語が通じるかどうかだろうか?


いや、それは違うだろう。

例えば、犬だ。

もしも、我が家の犬が一瞬の自由に心踊らせ、脱兎のごとく逃げ出したとする。

けれども、代わりの犬を探してこようね、とは絶対にならない。


言葉が通じなくても、犬と私たち家族には絶対通じ合っているものがあるからだ。


母が出勤するとき、彼女は寂しそうに尻尾を垂れて見送っている。

私が東京に戻る時、また離れ離れになることを私もまた、とても悲しんでいる。


きっと、通じ合う、ということが大切なのだ。


きもちときもちが、通じ合う。


じゃあ、このきもちってどこからくるのだろう?


心?


アタマ?


それとも、全身の細胞?


人間の60%は水でできている、などと言うではないか。
分子レベルに分解したら、遺伝子という設計図は多少違うにせよ、構成内容は「人間」という種においてほぼほぼ一緒なのだ。

H2OとかNとか、そんなものの集合体がある奇跡的な組み合わせになったとき、そこに、その人だけの「思考」が生まれる。

私たちはほとんど一緒なのに。

仮に類人猿の時代から脈々と続く、人体の完璧な設計図通りに体の成分が組成されたとして、その組み合わせにより何らかの電気信号が引き起こされる。それが思考だとしよう。

では、明るい人、静かな人、その人の性質は何に起因するのだろうか。

もしかすると、思考や感性は幼少期の環境によるのかもしれない。

私には妹がいる。

高校生まで一緒の家で育った。

けれど、私と妹は似ているところもある反面、違うところの方が多い。


母が2枚のハンカチを買ってきたとして、その意見がぶつかることは決してなかった。


母が「どちらがいい?」と聞くともなく、

「ピンク!」

「青!」

と声を揃えて、異なる方向を指差すのだ。

まるきり反対といえば反対だが、仲の悪い姉妹ではない。

大人になってからもたまに2人で食事をするし、ふらりと買い物したりする。

わたしは彼女とどこで違ったのか。


わたしたちは、どこで考えているのだろう?

わたしは、なにを以ってわたしとわたしを定義づけているのだろう。

わたしたちは、どこで、うれしい、かなしい、と感じているのだろう?

 


その答えを出すヒントになるかも知れない、静かなよい小説でした。



カズオイシグロ
わたしを離さないで

 

http://amzn.asia/h0IMXCY

 

 

 

 

職場でお手軽に楽しくなる方法を考えてみた(日常編)

素敵な休日ごきげんよう

毎週月曜日更新の佐藤のメモ帳です。

 

今日は最高に天気がよいですね!

最近、腰痛と肩こりがひどいのでこの記事を書いた暁には整体に行ってきます。(ここまでは日曜日に書いた。短い。そして、今日が休日と錯覚している訳ではない。どうでもいいが、このあと腰痛は激烈に悪化することとなる)

 

さて、最近バタバタとして仕事もそれなりに慌ただしく、「なにかたのしいことないかなあ〜」と考えていたわけです。

私の職場は95%男、というなかなかアツい感じですが、職場のおじさんたち(失礼…でも親しみを込めて本人たちによく言ってるからよしとする)はとても陽気な人ばかりなので、あんまり男女差を感じたことはありません。

 

例えば、私が疲れてしわくちゃになっていると「っしゃあ! 今日、行っちゃいますか?」と何やらせっせとお店をリサーチして気分転換に連れ出してくれます。(たんに飲みに行きたいという説もかなり有力)

 

一方で、連日終電近くになり、しわしわが極地に達している時はその気分転換さえ断ってしまうことがたまーにあります。

 

そうすると明らかにLINE公式スタンプのうさぎさんのように落ち込みきっているのに

 

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OK! OK! 気にしないで!今日はゆっくりねちゃいなYO!」

 

と朗らかに言ってくれるのです。

 

そんな陽気なおじさんたちにたっちゃんという方がいます。

たっちゃんはどちらかといえば年齢的におとんに近い存在ですが、全く偉ぶらない素敵おじさんなので、私はたっちゃんなどと失礼極まりない呼びかけで接することができるのです。

 

さて、そんなこんなでいつも通り?たっちゃんたちと仕事帰りふらりと飲みに言った時のこと、「そういえばさ…」とたっちゃんが話してきたのです。

※以下、偽名でお届け。私だけは本名。

 

「最近、時間がかかる業務が多いじゃん? あれ、終わった時にすごい達成感あるからさ、終わった時に一区切りでなんかしたいよね」

 

そうなのである。私たちの仕事は何かと息の長い仕事が多い。

 

私は考える。

 

 

「…ハイタッチとか?」

 

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出典)wavebreakmedia / PIXTA(ピクスタ)

 

「◯◯終わりましたあああ! いえ〜〜〜! みたいな?」

 

「お〜、それいいねっ、ムッチャ面白いやん」

 

たっちゃんはアメリカ帰りなので、私のこの手の雑な提案にもノリノリで反応してくれる。

 

私はご機嫌になり、続ける。

 

「原監督もさいこうスね」

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出典)pic.twitter.com/yZhTnZcOTc

 

「おおお〜!! ええやん! こう、ね」

 

たっちゃんが握りこぶしをみんなに向けてグッとする。

 

しかし、私ははた、と気づくのだ。

 

「私、調子に乗ってやり過ぎて絶対怒られますね・・・?」

 

「あいつ、ハラタツノリしかやってないやん! 仕事やってないやん! って?」

 

「そうです」

 

上司がケタケタと笑っている。

 

他に面白いこと・・・

 

我々はそれぞれの「なにか面白いこと」に思いを巡らせながら、ビールを飲む。

 

ぐびぐびぐび。

 

 

たっちゃんがまたもや何か思い出す。

 

「全然関係ないんだけどさ、今日、会議でさ、サイトウさんが『発破をかける』って言ったのよ」

 

発破をかける……。

 

「ちょっと〇〇の作業が遅れているので、少し発破をかけときます、みたいな感じでさ。いや、日本語的に超正しいんだけど、最近、あんま聞かないよね? いやあ〜、懐かしいっていうか、なんていうか、俺感心しちゃってさ」

 

確かに。

 

「あ、でも、佐藤ちゃんもたまに渋い日本語使ってくるよね! それ、言い得て妙! 言い得て妙です! とか」

 

ふむ。確かに、私は一時期、相槌のバリエーションを増やしたいと謎に頑張っていて、それもその一つである。というか、私の知ってる言葉の中でその相槌がもっとも適切な気がしたから言ってるだけでもある。

 

「たしかに! 言い得て妙!」

 

ふむ。

 

「あとさ、俺こないだ、初めて『ギャフンと言わせてやりたい』って聞いたのよ」

 

「それはない! 私今までそれはないっす!」

 

我々はビールのおかげでご機嫌である。

 

「まあ、たとえですよ? 『ギャフンと言わせてやりたい』って私がたっちゃんに思ったとしますよね? で、たっちゃんをギャフンと言わせてやろうとするじゃないですか。で、実際に何かしかけた時『ギャフン!』て言います?」

 

「俺、事務所で『ギャフン!』とか言ってたらめっちゃおもろいやつだよな!笑」

 

「そもそもギャフンていつ出た言葉なんでしょうね」

 

みんなが口々に推測する。

 

手塚治虫あたりが漫画で言ったとか?」

 

「あれじゃないすか! 僕らが小学生の時に言ってた『デュクシ!』!」

 

その時は「デュクシ」説がもっとも濃厚になったのだが、

なんと後日の佐藤リサーチによると「ギャフン」はなかなか由緒正しい言葉である。

 

明治時代 以降に見られる表現。言い負かされて、言葉も出ない様。

( ギャフン - 語源由来辞典 より一部抜粋)

 

明治時代・・・

 

私は「ギャフンと言わせたい!」と言ったこともないし、「ギャフン!」と言ったこともない。

けれども、割とあっという間に言葉は廃れていってしまうものだ。

それでも「ギャフンと言わせたい」という言葉が「初めて聞いたわ〜」と言われつつも、すっかり廃れてはしないのは、日本人は明治のあたりから「ギャフンと言わせたい」としか言いようのない心持ちになり、今も思っているということなのだ。

 

言葉って面白い。

 

日々のどうでもいいようなツイッターでのつぶやきも元はと言えば、心や感情の揺れ動きに起因している。

 

それを言葉にしちゃえば、ほんとにどうでもいいことになったりもするし、なんか大層なことを考えていた風になる。

 

私たちは心でも考えるけど、普段はやっぱり頭で考える。

 

知っている言葉の数と思考の深さは関係するんだろうか?

 

そして、言葉はある意味、世界の切り口で、数学や物理もある意味言葉なんだなあ、とか。

 

こんなことはもっと昔の人の方がたくさん考えていたんだろうなあ、とか。

 

そんなこんなで今日は人生でもっとも「ギャフン」と入力した日となりました。

 

ギャフン記念日。

 

ということで、私の最近のひそやかな趣味は「たのしい日本語」、「ステキな日本語」、「おもろい日本語」を使っている瞬間を見つけることです。

 

お手軽に楽しくなれるので、皆さんもぜひやってみては〜!

 

おやすみなさあい。